日常と非日常の狭間で

先日(といってもこの記事を書いたのは半年くらい前)、公式に紹介されていたnoteを読んだ。

コンテンツ飽和時代、人生を着実に退屈にする「効率重視のパラドックス」を乗り越えるためのたったひとつの冴えたやりかた。|晶文社

 

選択肢が多すぎると選択すること自体が億劫になり、選択したものに対する幸福度も目減りする。

頑張って最善の選択肢を選んだとしても、他の選択肢が良かったような気がしてしまう。

ならばいっそ、最善を選ぶことを諦め、選択そのものを楽しもうという話。

名文だと思う。

 

選択肢が多すぎると、確かに選ぶこと、もっと言えば調べること自体が面倒になる。そしてなにより、無難な選択肢を選んでしまうことにつながる。

近年は、あらゆるサービスでレコメンド機能が働き、おすすめが表示される。その中から選ぶとなるとなおさらだろう。

もちろん、選択肢が多いこと自体は悪いことではない。

ごく限られた選択肢しか与えられなければ、それはそれで選ぶ楽しさから遠ざかる。

 

「情報を消費する」という言葉もある。選択肢が多いことは、情報が多いこととほぼ同義である。

評価が高いから美味しく・面白く感じるということも、無意識的にはあるだろうし、映画などでは、後から調べてみると意外な感想と出会えたりすることもある。

 

だが、noteでも言及されているとおり、「未知の絶景」と出会えなくなってしまうのである。

同じコンテンツでも、おすすめされたか自分で選んだかで幸福度は変わる。

そして、適当に選んだ選択肢が、たまたま自分にとって最善だった時だけ、幸福度は最大になる。それが「未知の絶景」だ。

 

あらかじめガチガチに予定を組んだ旅行も楽しい。

絶景スポットとして紹介されていた所に実際に赴くと、確かに良い景色を見ることができるし、それも貴重な経験だ。

だが、本当に心に強く残る景色は、案外ふと出会った景色だったりする。

旅行が趣味の私の心に強く残る景色は、ふと立ち寄った飯井という集落の景色だ。

 

最良の選択肢を選ぼうとすることで疲弊してしまうのだから、最良を選ぼうとしなければいいというのが、noteで述べられていることだ。

だが、実際に全ての場面でそうすることは難しいだろう。

自分ひとりなら適当に選ぶことも自由だが、人と一緒ならそうもいかない。

お互いが自由な選択を楽しめる人間だったとしても、事前に約束をする以上、アレコレと調べる必要が出てくることになりやすい。大人数であればなおさらである。

そしてその選択は、参加者が不快な思いをしないよう、最良の選択肢を目指すものになるだろう。

 

生活の多くの場面では、このような選択に迫られることとなる。

だからこそ、自分ひとりの時や、気のおけない人と旅行に行った時など、自由な選択をする心構えを持ちたい。

日常で選択をすることが多いのだから、非日常的な選択を取り入れ、心に残る絶景に会える機会を逃さないようにしたいと思った。