人にうまくおすすめできる人間でありたかった

人と飲んでいる時、よく、その人のおすすめを訊く。マンガ好きなら一番好きなマンガを、映画好きなら一番好きな映画を・・・といった具合に、その人が好きなエンターテインメントについて尋ねる。

私が、映画をあまり観ないということもあり、割と万人に共通する話題として、マンガについて訊くことが多い。

 

良い作品・良い情報に触れるためには、それに詳しい人に訊くのが手っ取り早い。話題としての趣味は、相手の人となりを知るきっかけにもなるし、相手が話しやすいテーマでもある。初対面であっても話を続けやすい、便利な話題だと思う。

逆に、仲の良い人が相手の場合、薦められた作品に後から触れた時、その人がなぜこの作品を好きなのか、この作品がその人にどういった影響を与えているのか、といったことに思いを馳せることができる。もちろん、すべての作品に対して、いちいちそういったことを考えるわけではないけれど、ふと思い浮かべ、作品の楽しみ方が広がることもある。

 

自分では掘らない方向に、趣味が開けていくのは面白い。特に音楽は顕著で、わざわざ話題にしなくても、ふと車の中で誰かが流した音楽をきっかけに、好きなアーティストが増えることもある。

 

最近食べたおいしい物の話から行きたい店が増えたり、旅行の話から行きたい場所が増えたり、とにかく話題は多岐にわたるので、誰しも多かれ少なかれ、こうした情報交換を行っている。

当然、会話の流れの中で、自分がおすすめする番になることもあるわけで。そのたび、熱量を持っておすすめできる人間が羨ましい、とコンプレックスを抱く。

 

話に熱量があるというのは、表現が大げさであったり、表情や抑揚が豊かであったりすることだと思う。好きな異性のタイプとして、「おいしそうに食べる人」を挙げる人は多い。はい、私も好きです。

あれも、一種の「熱量がある」というもので、おいしそうに物を食べる人は、総じてリアクションが大きいと思う。そして、それがわざとらしくなく、あるいは、多少わざとらしくても、愛嬌があるから受け入れられるものである。

 

ただ、例えば好きなマンガについて話す時、熱量でおすすめするのは、本来アプローチとして破綻している。人に作品を薦める時には、自分がどのような点を気に入っているのか、どうして相手におすすめなのかといったことを、ネタバレにならない程度に物語の概要を交えつつ話すのが、一般的である。

これが、やってみると案外難しい。相手によって、興味を持つポイントが変わるため、誰に対しても同じ内容で話す、ということができない。アドリブ性の高い中で、物語の概要を話しながらまとめるというのは、少なくとも私にとってはかなり難しい。

 

それでも、人におすすめするのがうまい人はいる。これには2つタイプがあると思っている。

1つは、要点をうまくまとめつつ、相手の興味を引き出すように話すことができる人。要するに、上で挙げた難しい点を、うまく話すことのできる、頭の良い人である。私にはできない分野であるため、当然羨ましい。

もう1つは、熱量で押し切る人。「おいしい」料理、「楽しい」体験など、単純に感情を表現するだけでも十分おすすめとして成り立つものと違い、ある程度説明が必要なマンガについても、熱量で押してくる人がいる。それでいて、ちゃんと興味を持てるような、おすすめの仕方になっている。これができる人は、本当にわずかながら、いる。正直勘弁してほしい。羨ましい。

 

熱量で押せる人というのは、「感情をオーバーに表現しても、違和感がない」という前提がある。喜怒哀楽の激しい人が、「ボロボロ泣いた!」と薦めてくるマンガには、なんとなく興味を惹かれる。

本当は、喜怒哀楽が激しいなら、笑う・泣くのハードルが低いはずなので、シニカルな見方をすれば、安っぽい感動である可能性は高くなる。

それでも興味を持つのは、心動かされる作品に触れたい、という思いがあるからだろう。そして、相手の感情表現に違和感がないからこそ、それを叶えてくれるような感覚になるのだと思う。

 

人におすすめするのがうまい人になりたい、とよく思う。前者の、「説明がうまい人」は、訓練すればなれるものでもある。相手のツボがどこにあるかを探りながら、興味を惹けるような話を展開する。話のうまい人を観察して技術を学んでも良いし、場数をこなして上達するのでも良い。ゲームのような感覚でもあり、面白いと思う。

だが、後者の、「熱量で押せる人」は、持って生まれた才能が必要なものである。今まで熱量で押したことのない人が、急に感情豊かにおすすめし始めても、わざとらしさが絶対に生まれる。

完全にわざとらしさを消すためには、「わざとらしくなく」他人に対して感情を出す必要がある。つまり、自然に感情表現を大げさにできる人でなければならない。「普通に感情表現できる」ではなく、「普通に感情表現がオーバー」というレベルである。そして、これができる、というかやっている人は、おそらく意識していない。

 

会話の流れの中で、ピンポイントで、「わざとらしくない範囲で」オーバーリアクションを取る、ということは、誰しもある程度、やっていることだと思う。

誰でも、自分の話に深く共感してもらえたり、笑ったりしてもらうと嬉しくなるものである。そうした感情表現は、円滑なコミュニケーションに便利なものであるため、誰でも意識的に、あるいは(遭遇頻度が多いため自然と)無意識的に行っている。

 

「わかる」という相槌は、ここ数年でかなりよく使われるようになった。最も単純な共感の言葉であり、使い勝手が良い。乱発されるようになった結果、「とりあえず『わかる』って言っときゃええやろ!w」という雑な使い方も増えた(というか、それも含めて様式美みたいなところがある)。

そんな使い勝手の良い言葉だからこそ、ここぞという時に「いや~わかるなあ~」という深い共感を示すと、分かりやすく相手に刺さる。

この辺の話は、大学の時に、岡田斗司夫氏も講義で話していた。あの人かなり胡散臭いけど、その理由が、人を惹き付ける話し方を意識的にしていること、だと思うんだよな。

 

閑話休題

熱量で押せる人というのは、単に感受性が豊かである、ということとも異なる。私は、映画タイタニックを3回観て、3回とも泣くくらいには涙もろいけど、熱量で押すことは一切できない(というか、登場人物が泣くと、条件反射的に泣く癖があるので、ある意味感情がバカとも言える)。

要するに、感情表現がうまい人は、アウトプットが上手な人、ということになる。インプットは関係ないのだから、そりゃあ感受性は関係ない話になる。インプットをそのままアウトプットに出来る人が、熱量で押せる人になれる可能性がある。アウトプットを文章にしてこねくり回している人には、およそなれないのである。